礼拝講話

「悲しみの向こうに」ルカによる福音書18章18~23節

2025年5月25日(日) 待晨集会伝道礼拝講話

「悲しみの向こうに」
ルカによる福音書18章18~23節

単立新泉教会牧師 阿佐光也

18:18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。
18:19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
18:20 『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
18:21 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
18:22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
18:23 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。

 おはようございます。
 今日はお招きをいただき、ありがとうございます。
 ご紹介いただきました、単立新泉教会牧師の阿佐光也です。
 私は、2年ほど前には、日本基督教団新泉教会の牧師でしたが、一昨年、75歳になったので日本基督教団の牧師を隠退しました。
 しかし、新泉教会の牧師を辞めることは教会員が許してくれませんでしたので、その翌年、つまり昨年3月で、新泉教会も教団から離脱して、単立教会となって、今もいっしょに活動をしています。

 ご存じと思いますが、私は両親が待晨集会にお世話になっていて、今は、2人とも待晨集会の墓地に埋葬していただいています。
 ですから、私は物心ついたときから、両親から待晨集会の話をよく聞いていまして、時々はいっしょに連れてこられていました。
 それはこの会堂ができる前からで、そういう意味では、長いお付き合いです。
 私は、36歳の時に神学校に入学したのですが、その前の数年間を待晨集会の礼拝に集って、待晨のみなさんにお世話になっていました。
 その当時、信愛学舎にお住まいだった、民谷さんの家庭で行われていた聖書研究会にも顔を出させていただいていました。
 牧師になった後も、何かとお声をかけていただいて、私としては待晨集会とずっとつながってくることができ、感謝しています。

 ということで、今回も民谷さんからメールをいただいて、やって来た次第です。

 さて、今日は、どのようなお話をすればいいのか、ちょっと迷ったのですが、先ほど読んでいただきました、ルカ福音書18章18節から23節までの物語を選んで、ごいっしょに学んでみたいと思いました。

 この聖書の箇所には新共同訳では、「金持ちの議員」という小見出しがついています。
 今日はこの段落の途中、23節までの物語を主に取り上げたいと思います。
 この物語はとても想像力をかき立てられる、そんな内容になっていて、今日は想像力豊かにこの物語を読んでみたいと思います。

 ここには小見出しの通り「金持ちの議員」が登場します。
 因みに、マルコ福音書の並行個所では、単に「ある人」であり、マタイ福音書では、この「ある人」は「青年」であったことがあとで分かるようになっています。
 3つの福音書とも、このイエスに質問をする人は資産家(金持ち)として描かれていますが、ルカはそれに議員という肩書きを付け加えているのです。
 そこで、今日はここに訳されているとおり、この人を「金持ちの議員」として読むことにします。

 この「金持ちの議員」とはいったいどんな人なのでしょうか。
 私は、聖書に登場する人物が、いったいどういう人であるか、ということにとても興味が持つのですが、聖書にはそんな詳しいことは書いてありません。
 そこで、いろいろと想像を巡らすのですが、それが聖書を読む一つの楽しみであります。

 ここに登場する人は、ユダヤの国の金持ちの議員です。
 議員というのはユダヤ最高法院(サンヒドリン)の議員でしょうから、この人は、家柄も良く、経済的には勿論、社会的にも恵まれている方でしょう。
 更にここでのイエスとの会話でわかりますように、信仰的にもまじめな人で、しかも、イエスに自分の悩みを打ち明ける素直な心ももっている。
 まず、そんな人物像が浮かんできます。
 境遇的には、とても幸せな人ということです。

 さらには、ファリサイ派の主張に凝り固まっていることもなく、真摯に自分の人生に向き合っている思慮深い人、また、とても謙虚な人でもある、そんな感じがいたします。
 これらは私の想像ですが、この人は恐らく誰にでも好かれ、信頼され、尊敬されている、そんな人物のように感じます。
 こう考えると、ちょっと極端ですが、この人は、社会的にも経済的にも、そして人柄も、また、信仰の面でも、誰が見ても申し分のない恵まれた人生を歩んでいる人ということになります。
 これは、私の想像ですから、もちろん断定はできませんが、この物語からそういう人物像が浮かんでくるのです。

 しかし、それにも拘わらず、この議員はイエスのところにやってくるのです。
 そして、自分の抱えている問題をイエスに率直に語り、教えを乞うのです。
 それは、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問でした。

 正直なところ、私は、この人は別にイエスのところにやってこなくても、いいのにと思います。
 これは大きなお世話かもしれませんが、わざわざ危険視されているイエスのところに来なくても、何も困らない人なのです。
 イエスの周りには、この世で虐げられ、差別され、あるいは病や傷害を負って苦しんでいる人、律法を守れず穢れているとか罪人だとか言われ、社会からあざけられている人、そのような人々が群がっているのです。
 そういう人々がイエスの周りにいっぱい集まっている中で、この金持ちの議員は、白昼堂々とイエスのところにやってくるのです。
 これはかなり不思議なことですが、逆に、そういうことが平気でできる自由さをこの人は持っているのです。
 それも、恐らくこの人の魅力ではなかったか、そんなことも思います。

 ヨハネ福音書にニコデモという議員がイエスのところにやってくる物語があります。
 そこでは、ニコデモは夜イエスを訪ねたとあります。
 何となく人目を忍んでイエスを訪ねている様子です。
 しかし、この金持ちの議員は、人目を気にもせず、イエスの所にやって来て、誰にはばかることなく、自分の悩みを打ち明けているのです。
 何故でしょうか。
 これも想像の域を出ませんが、それは人生の大問題をこの人は抱えていたからでしょう。
 この人は、あらゆるものに恵まれていても、何か居心地がわるいのです。
 自分に何か足りないものを感じながら生活していたのだと思います。
 金持ちで議員という、資産も地位もあって、信仰深くて、心も柔軟で、優しくて、謙遜でもあり、友たちも多く、だれからも敬愛されている。
 もう、全部手に入れているのに、でもまだ、満たされないのです。
 ここに人間が生きるということが一筋縄ではいかない現実があるのです。

 ところで、この金持ちの議員は、律法学者ではなく、どうしてイエスのところへやって来たのでしょうか。
 イエスは貧しく虐げられた民衆には人気はあるけど、いわば得体の知れない放浪者で、ユダヤの有力者たちからは、危険視されていているのです。
 イエスの周りにいるのは、先ほども言いましたが、社会からは見捨てられたような人ばかりなのです。
 議員の立場からすれば、敬遠したいような人物です。
 しかし、この人にとってはそれ故にこそ、イエスに会ってみたい、そして、自分の願いをぶつけてみたかったのでしょう。
 この金持ちの議員は、そういう人物なのです。
 ここにも、彼の性格が現れています。

 こうして、イエスのもとにやって来た彼は、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」と問いかけました。
 彼は率直に「どうしたら永遠の命が手にはいるのか」を尋ねたのです。
 それは、永遠に長生きしたいということとは違います。
 もっと確信を持って人生を生きたいのだけど、何をすればいいのか、ということだったのでしょう。

 ケセン語に聖書を訳した山浦玄嗣さん訳の福音書は、この「永遠の命を受け継ぐために」を「いつも明るく生き生きと生かしていただくには何をすればようござるか?」と訳しています。
 その通りだと思います。
 この問いかけに対して、イエスはまず、「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、良い者はだれもいない」とおっしゃいます。
 これは、「神さまの前では、人はみな同じなんだよ」ということだと、私は解釈します。
 そして、イエスは語ります。
 「その神さまの掟をあなたは知っているはずだ。そこには『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』とあるではないか」と。
 すると、この人は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えたのでした。
 この人にとっては、本当に「それは、小さいときから守ってきている」ことで、当たり前のことなのです。

 イエスのこの答えを聞いて、この人は一瞬、「なあーんだ」と、イエスに落胆したのではないでしょうか。
 しかし、彼はそんな態度は見せずに、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と素直に答えます。
 すると、これを聞いたイエスは、こう言ったのでした。
 「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 このイエスの言葉を聞いて、この人はどんな気持ちになったでしょうか。
 これが次の想像力をかき立てられるところです。
 そして、これも私の全くの勝手な想像ですが、私は、この人は、イエスのこの言葉を聴いて、一瞬にして目が覚めたのだと思います。
 つまり、「あっ、そうなのか!」と、この人はイエスの語る言葉の意味を直感的に理解したのです。
 彼の抱えていた大問題の答えがそこに確かにあったのです。
 そのことを聖書は「その人はこれを聞いて非常に悲しんだ」と表現しています。
 彼は、イエスの言葉の深い意味が理解できたのです。
 これがこの議員のある意味すばらしいところです。
 しかし、この人は、イエスの言葉の真意を理解できたと同時に、自分にはそれができないことをも即座に自覚したのです。

 だからこそ、「彼は非常に悲しんだ」のです。
 イエスの言葉が「全くその通りだな」と心にしみたのです。
 そして、「そうできたら、本当にいいだろうな」と心の底から思ったのではないでしょうか。
 しかし、全くその通りだ、と思いながら、それに従えない自分を決定的に自覚したのです。
 だから、この人は激しい悲しみに襲われたのであります。

 もし、イエスの言葉の意味やその真実がわからなければ、「そんな無理なことを言って」と言って、この人は腹を立ててその場を立ち去るはずです。
 「そんなことできるわけもないだろ、ばかにしやがって」ということです。
 しかし、彼は、ああ、そうできたら、どんなにいいだろう、でも、自分にはできない、そこに彼の大きな悲しみがあるのです。
 このあと、ルカは、彼が「大変な金持ちだったからである」と記していますが、それはあまり関係ないと思います。
 これはすべての人に通じることだからであります。

 この人は、最初、イエスに「何をすれば永遠の命を受けられますか」と問いました。
 「何かをする」、それは「自分の持っているものに、もう一つ何かを付け加える」ということです。
 もし、イエスが、こういう事をしなさい、たとえば、「こういう修行をしなさい」とか、「こういう生活をしなさい」などと語ったなら、それがどんなに難しいことでも、この人は、努力したでしょう。
 しかし、イエスの答は違っていました。
 今、持っているものをすべて捨ててみなさい、ということでした。
 ただそれだけでした。
 あなたが、生きるために頼りにしている、富や地位や境遇や、名声も人々の評判も、みんな手放してごらん、そうすれば、自由になって、私に従ってこられるよ、というものでした。  
 彼はそこで分かったのです。自分が何故イエスに魅力を感じて、わざわざ訪ねる気になったか。
 それは、イエスがご自分が語った通りに、すべてを手放して、神さまにすべてを委ねて生きているからでした。
 それはなんという自由なことでしょう。
 その自由の中にこそ、自分の求めている永遠の命があるのです。
 しかし、自分はそのようにはできない。
 そのようには決して生きられない自分を発見してしまったのでした。
 そこに人間が生きるということの限界があるのです。
 そして私たちの悲しみも実はそこにあるのです。

 ちょっと余談になりますが、みなさんは、NHKのEテレで毎週月曜日夜の放送で、もう大分長く続いている「100分で名著」という番組をご存じでしょうか。
 25分の番組で毎月4回放送で100分、いろんな文学や哲学書が取り上げられていて、私はほぼ毎回楽しみに見て、楽しんでいるのですが、今月は昨年11月に亡くなった谷川俊太郎さんの詩を取り上げていて、評論家で詩人の若松英輔さんが解説をしています。
 先週の19日、月曜日はその3回目で、そこで、取り上げられた詩の一つが、今日のイエスと議員の物語に通じていて、とても印象に残りました。
 それは、全部ひらかなで書かれたこんな詩です。

おかねでかえないものを わたしにください。
てでさわれないものを わたしにください。
めでみえないものを わたしにください。
かみさま もしあながたいらっしゃるなら
ほんとのきもちを わたしにください。

どんなにそれが くるしくても
わたしがみんなと いきていけるように

 シンプルでとてもいい詩で、この詩人の豊かな才能を感じるのですが、今日の聖書の金持ちの議員の心情と重なるように感じます。
 そして、「ほんとのきもちを わたしにください」を、「ほんとのいのちを わたしにください」としたら、この金持ちの議員の詩になるように思ったのです。
 「おもい」を「いのち」に替えてもう一度よんでみます。

おかねでかえないものを わたしにください。
てでさわれないものを わたしにください。
めでみえないものを わたしにください。
かみさま もしあながたいらっしゃるなら
ほんとのいのちを わたしにください。

どんなにそれが くるしくても
わたしがみんなと いきていけるように

 この議員は、「おかねでかえるもの」「てでさわれるもの」「めでみえるもの」はみんな手に入れている、それは財産であり、地位であり、名声であります。
 でも、そこには、「ほんとうのいのち」はないのです。
 ですから、おかねでかえないもの、てでさわれないもの、めでみえないものを、くださいと希求するのです。
 それが「永遠の命を受け継ぐ」ということでしょう。
 月曜日にこの番組を見ながら、そんなことを感じました。

 ところで、この議員がこのあと、どのような人生を歩んだかは、聖書には何も記されていません。
 そこで更に想像を膨らませると、私はこの後、彼はこの激しい悲しみを通して、生き方が変えられていっただろうと思います。
 自分の大問題に対して、イエスから答が得られたからです。
 人の本当の命がどこにあるのか、その生き方がわかったからです。
 そして、この議員は、この後、人知れず、イエスを慕って、そのことに喜びをもって生きたと、私は想像するのです。

 また、更に私の想像は膨らんで、妄想の域に達するのですが、この金持ちの議員こそが、実はアリマタヤのヨセフではないかという思いに、私はどうしてもとらわれてしまうのであります。
 ルカは、イエスが十字架上で息を引き取った後を、このように書いています。

【既に、夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身の身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体をわたしてくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめた上、遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩をほって作った墓の中に収め、墓の入口には石を転がしておいた。】

 私は、ここに書かれているように、突然に現れて、十字架に磔にされて死んだイエスの遺体を引き取って、自らの墓に葬った「アリマタヤ出身の身分の高い議員ヨセフ」とはいったい誰なのか、疑問に思っていたのですが、ある時からこの人こそが、今日の聖書に登場する金持ちの議員につながるようになりました。
 主イエスの遺体を引き取るという、危険な行為を買って出るほどに深くイエスと交流している議員は、ここに登場する金持ちの議員しかいないのではないか。
 そう思ってしまうのです。
 この金持ちの議員の「激しい悲しみ」は、そこまでこの人を変えたのです。
 イエスと出会って、人の奥底にある悲しみを知ったことで、実は、彼の生活は、活き活きと生き始めたのではないでしょうか。

 そして、彼は議員ですから、逮捕されたイエスのサンヒドリンの裁判にも立ち会わざるを得なかったでしょう。
 そこで、イエスをじっと見つめていていたのでしょう。
 そして、最後の最後にいてもたってもいられなくなり、イエスの遺体を引き取り、自らの墓所へ丁寧に葬ったのであります。
 この行為は、議員としてのヨセフに相当なダメージ、あるいは決定的なダメージを与えたことと思います。
 それでも、彼は遺体の引き取りに名乗りを上げ、実行したのです。
 そして、彼は復活の主イエスと出会い、今度こそ復活のイエスと共に生きて、永遠の命を受け継ぐ者となったのだと思います。
 それは、先ほどの詩の言葉を借りると、「どんなにそれが くるしくてもわたしがみんなと いきていけるように」 なのです。
 これが、私の暴走的妄想であります。

 イエスと出会って、自分に欠けているものを本当に知った人、しかし、それは自分ではどうしようもないことを、しっかりと自覚してしまい、自分という存在にどうしようもなく、激しく悲しんだ人。
 しかし、その悲しみに向こうに、主イエスは真の命を準備し、それを与えてくださるのです。
 それがここに登場する金持ちの議員ではないかと、想像をたくましくするのであります。
 そして、この議員の悲しみは、実は私の悲しみであり、私たちの悲しみなのです。
 私たちは、この悲しみを通して、主イエスと出会い、主イエスを信じ、そして、復活の主イエスと共に生きるのです。
 そこに「永遠の命を継ぐ」道が開けているのだと、信じるのであります。
 「悲しみの向こう」に「主イエスの福音」があるのです。

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