2025年10月26日(日) 待晨集会伝道礼拝説教
「織りなす布は…」
マルコによる福音書12章28~34節
早稲田教会牧師 古賀 博
早稲田教会の牧師で、古賀 博と申します。この度、再び待晨集会にお招きいただき、深く感謝しています。
私は学生時代に早稲田大学YMCA寮、信愛学舎で2年間、生活しました。大学入学、信愛学舎入舎は1980年のことですから、もう45年も前のことです。 翌1981年3月に酒枝義旗先生が召天され、大隈講堂で葬儀が執り行われ、信愛学舎の舎生の一人としてお手伝いもさせていただきました。参列者の誘導係であったかと思います。礼服など持っておりませんでしたので、高校時代の詰め襟を着用してのことだったと記憶しています。
酒枝先生の葬儀に先んじて、1981年の春から民谷嘉輝先生ご夫妻が信愛学舎の新しい舎監として着任されました。民谷先生は都庁でのお働きに加えて、お連れ合いの皓子さんと共に、私たち学生たちのお世話もあたたかく進めてくださったのでした。当時、私は大学2年生、前年のクリスマスに洗礼しておりましたが、何とも腰の落ち着かないふわふわとした信仰、それでいて生意気でしたので、民谷先生の抱いておいでの実に純真・まっすぐ、揺るぎなく堅い信仰にやたらと反発を憶え、何かと食ってかかったりもして、とてもご迷惑をおかけしました。若気の至りとは言え、実に申し訳なかった、失礼極まりなかったと感じています。
大学卒業の後は、長く年賀状のやりとりは続けさせていただきましたが、2017年に早大YMCAに深い関わりを持っていらした岩波哲男先生が召天され、早稲田教会員でいらっしゃいましたので、葬儀を私が司式し、その葬儀にて再会へと導かれ、以降さまざまに連絡を取り合うことが許されるようになりました。
待晨集会には2018年に一度招いていただきました。今回、7年ぶりにまたお邪魔しているような次第です。学生時代同様に、実にふわふわとし、真面目とは言えない適当な信仰、そのくせ牧師としての奉仕が35年にも至ってしまっている者ですが、今日はどうぞよろしくお願いいたします。
今日は「マルコによる福音書」の12章から読んでいただきました。12章28節以下は「最も重要な掟」、この表題の通り、大切な教えとしてキリスト者たちに読み継がれ、心に置かれてきている、そんな有名な箇所です。
28節に「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」とあります。主イエスの御前に進み出た律法学者は、ファリサイ派に属するひとり。彼らは、神に与えられた掟である律法をしっかりと守って生活する、このことを最重要の課題と考え、活動していました。
律法学者は、権威ある者のように教えておられた主イエスから、示唆を得たいと、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と問いました。
彼らが大切にしていた律法は、生活の細かな部分まで規定するもので、数としては600以上もあったとのこと。律法学者たちは、これら数多くの律法を事細かに研究し、生活や問題へ律法的に対処するためのアドバイスを行っていました。そのような律法学者たちの一人が、数ある律法の中心、要となる教えをしっかり掴みたいと願い、イエスに問いを発したと言うのです。
主イエスは、第一の掟として次の律法を示されました。
29…「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」。
これは、旧約聖書「申命記」6章4節以下に残されている、旧約聖書における「最大の戒め」と呼ばれている律法です。
「イスラエルよ、聞け」とこの掟は始まっています。「聞け」とは、ヘブライ語で「シェマ」という言葉で、重要な教えを示す際の定型句です。そこから「申命記」6章4節は「シェマの祈り」とも呼ばれてきました。ユダヤの成人男性たちは毎日、朝晩の二度、暗誦しているこのみ言葉を唱えることが義務づけられていました。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」とあります。「心」は知力、「精神」は感情、「思い」は理性、「力」は意志を意味しています。知力、感情、理性、意志を尽くして、神を愛しなさいという勧めです。この教えの真意を踏まえて、次のように示している方があります。「全存在をかけて、人格のあらゆる面において、例外や制約をもうけることなく、汝の神を愛せよ」、これがこの律法の真意だというのです。私たちが全力で、全身全霊で神を愛する、これが信仰において大切な、第一の掟であると教えられています。
こうした第一の掟に加える形で、主イエスは第二の掟をも同時にお示しになりました。12章31節にこうあります。
「31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』」。
「隣人を自分のように愛しなさい」は、「レビ記」19章18節に登場する掟です。
今日の「マルコ福音書」12章28節以下の並行箇所は、「ルカ福音書」では10章25節以下、あの有名な「善いサマリア人」の譬えの箇所です(新約聖書126ページ)。
「ルカ福音書」10章26節で、主イエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問うておいでです。「あなたはそれをどう読んでいるか」とは、知識として律法を知っているだけではなく、どう捉えて、その律法に実際に どう生きているか、という私たちの主体性へ向けた問いかけです。
この問いを受けて、律法学者は二つの教えを並べて答えました。 27節、「彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。
続いて主イエスから、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」との言葉いただきますが、律法学者は「自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」とあります。先の答えは単なる知識から導いたものだったのでしょう、自己弁護するように語りを重ねています。
聖書を読み、神の御心を少しでも学んでいこうとする私たちですが、そんな私たち一人ひとりに、主イエスがここで為している問いは常に突きつけられているのではないでしょうか。「あなたはそれをどう読んでいるか」、知識として聖書のみ言葉は知っているだろう、しかし知っているだけではなく、読み取ったあり方へと向かって、あなたは主体的に、具体性をもって生きているか、こうした問いを避けることはできないように思います。
神を真実に愛し、信頼して歩む、加えて隣人愛に誠実に生きる、これは実に難しい信仰の課題です。どこか逃げ腰であったり、また観念的に傾き、日常性・具体性を欠いてしまっています。私自身がまさにそんな不信仰さを牧師でありながら、ずっと抱え続けていること、正直に御前に懺悔せざるを得ません。
そうであっても、私たち人間の罪、欠けや限界というものをよくお分かりになった上で、主イエスは、第一に続いて第二の掟をも示されたのだと思います。主イエスは、第一と第二の掟は切り離すことのできない一体性を有するものであること、神を愛することと、隣人を愛すること、この二つが分かち難く結び合って、律法の中心、また信仰の要となること、この二つのどちらをも大切にし、二つの教えに生きるようにと、律法学者にも、そしてまた私たち一人ひとりにも語り、はっきりと示しておられるのではないでしょうか。
かつて、『聖書人物おもしろ図鑑』旧約編・新約編(教団出版局)の編集に携わりました。聖書の登場するさまざまな人物を通じて聖書内容を簡単に示し、子どもたちに興味を持ってもらう、そのような目的で出版した本です。
新約編において、私に割り当てられたのは、「イエスさまの教え」に関する執筆。数多くの主イエスの教えを、僅か4ページにまとめよという難題でした。
主イエスの教え、キリスト教の特徴を端的に表す、このためにどんな教えや聖句が適しているだろうか、悩んだ上で選択したのが今日の聖書箇所でした。
キリスト教のシンボルは十字架です。十字架は、主イエスを殺した処刑器具ですが、これをキリスト教は、イエス・キリストの贖いと救い、その深い愛を表す大切なシンボルとしても掲げ続けてきました。
十字架は、縦棒と横棒との組み合わせでできています。この十字架の構造と同じように、キリスト教にも縦軸と横軸が必要だと言われます。
十字架を成り立たしめている縦軸とは神と私たちとの関係、これを垂直的関係と呼んだりもします。これに対して横軸とは、私と他者との関係、私たちの関係を表し、これを平行的関係と呼んだりもします。十字架を成り立たしめるためには、縦=垂直的関係、横=水平的関係、このどちらもが必要です。
今日取り上げている主イエスの語られた「最も重要な教え」を通じても、神への愛(縦)、これと隣人への愛(横)、これらどちらも必要だと示されています。
テレビを観ていましたら、一人のお坊さんが登場して、中島みゆきさんの「糸」という曲について語られました。
仏教のお経、用いられている漢字「経」には縦糸という意味があり、この縦糸はどんな場合にも切れない糸で、「経」とはお釈迦様を表すとのお話でした。こうした切れない縦糸と、横糸である私たち人間がしっかりと交わり・関わる時に、人間には生きる喜びが与えられるのだと解説されました。
私はというと、「糸」という歌にはキリスト教の本質が響いていると聴いてきました。男女の出会いを歌ったものでしょうが、多くの人々が、自分と他者との関わり、自分と社会との関わりへの励ましの歌として「糸」を聴いているようです。
【一番を流す】
一番だけ聴いていただきましたが、一番と二番の終わりにこう歌われています。
縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない
縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かの 傷をかばうかもしれない
縦の糸とは、私たちと神との関係、横の糸とは私たちの関係を歌っているように聴いています。
主の十字架を形成する縦軸と横軸、縦糸・横糸が織りなして、よき織物やあたたかい編み物を作りあげていく、それらがどんな働きを担うのか、こうしたことがこの歌には歌われている、と受けとめています。
縦糸と横糸とが織りなしていくことで、「いつか誰かを 暖めうる」「いつか誰かの 傷をかばう」、こうしたことが実際に起こっていくように祈りつつ、具体性を伴って生きる、これが真実のキリスト教信仰ということではないでしょうか。
無教会の信仰者であった秋田 稔さん。2017年に97歳で召天されたようですが、この方の『マルコによる福音書に学ぶ』という講義録が出ています。
今日の箇所を講解するにあたり、秋田 稔さんは、第一と第二の掟が結びつくことによって、何が主イエスから示されているだろうかと問うた上で、内村鑑三の弟子で、無教会主義を徹底していった塚本虎二さんの言葉を引いています。
全力を尽くして神を愛することが真に人を愛する道であり、全力を尽くして隣人を愛することが真に神を愛する方法であるのだ。仰いでは神に対する愛(=信仰)となり、俯しては兄弟姉妹の愛となる。
「全力を尽くして」と重ねて語られています。自らの全力を注ぐ、自分の全存在をかける、神への信仰、隣人への愛、二つが同一であることを受けとめ、二つのことへ「全力を尽くす」、こうしたあり方が力強く語り継がれています。
繰り返しになりますが、このあり方を真正面に受けとめるのは容易なことではありません。しかし、こうした厳しさ・熱さをもって主イエスは、私たち一人ひとりに主体性を問う形で迫ってこられる、こうした主イエスの厳しさをも示した上で、秋田稔さんは“神への愛と隣人愛は二つにして一つなのです”と記していらっしゃいます。
主イエスの福音において、“神への愛と隣人愛は二つにして一つ”であること、これら二つの愛のどちらも大切にしながら、少しであっても主イエスの求めに応えていきたいと願います。
神への愛、隣人への愛、そのどちらにも不十分である自分がありますが、それでもなお、主イエスは二つの教えを共に成り立たしめる生き方へと私たちを招き続けてくださっています。
あるお坊さんは、お経の「経」の字は縦糸、そしてこの縦糸はどんな場合にも切れないのだと仏教の真髄を語りました。私たちにとっては、主と仰いでいる、十字架と復活のイエス・キリストこそが何があっても切れない確かな縦糸です。この主の愛と贖い、復活の希望に、私たちは誰もが導き入れられている、この恵みに与っています。十字架と復活の主イエスは、私たちがどんなに情けないあり方を示しても、諦めることなく、新たな一歩へと招き、呼びかけてくださいます。何度躓いても愛の主イエスに立ち返り、新たな信仰への歩みを一歩ずつ進みたいと願います。
そんな私たちの歩みが神の祝福の内に、「いつか誰かを暖めうる」「いつか誰かの傷をかばう」ものとなるようにと祈りつつ、決して切れることも揺らぐこともない、縦糸の神を大切にし、織りなされていく横糸としての私たちは、できるだけの隣人愛に生きるとの証を求めながら、ここに集う一人ひとりが神の招きに応え続けていきたいと思うのです。