礼拝講話

「思い煩うな、と言われても」マタイによる福音書6章25~34節

2026年5月24日(日) 待晨集会礼拝聖書随想

「思い煩うな、と言われても」
マタイによる福音書6章25~34節

単立新泉教会牧師 阿佐光也

聖書:マタイによる福音書6章25~34節
6:25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。
6:27 あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
6:34 だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
(聖書協会共同訳)

 おはようございます。
 この度は、またお招きいただきまして、一年ぶりにご一緒に礼拝を献げられますことを感謝いたします。
 去年は5月25日の日曜日でしたので、本当に一年ぶりです。
 この年齢になっての1年という時間は、いろいろ変化が起こってもおかしくはないのですが、私はなんとか無事に過ごしてきました。
 今回も実に他愛ないお話になると思いますが、先におゆるしを願っておきます。
 聖書講話とか、説教ではなく、聖書随想という感じで気軽に聴いていただければと、思います。

 ということで、今日はマタイによる福音書6章25~34節を読んでいただき、「思い煩うな、と言われても」と題してお話をいたします。

 最初にちょっと言葉のことを話しますと、今、読んでいただきました聖書協会共同訳で「思い煩うな」と訳されている言葉は新共同訳では、「思い悩むな」となっています。
 この言葉のギリシャ語はメノムノーという動詞で、辞書を引くと「心配する」「思い煩う」、そして「気にかける」「気を配る」という意味もあります。
 口語訳では「思い煩うな」で、塚本虎二訳、前田五郎訳、新改訳では、「心配するな」と訳されています。
 英語の聖書では、anxious(REB)、あるいは、worry about(NIV)などと訳されています。
 今日は、聖書協会共同訳に従って、「思い煩うな」というと言葉を使おうと思います。

 今日、私が何故、この聖書の個所を選んで、この題にしたのかというと、私自身が「思い煩い」ばかりの生活をしているからなのです。

 さて、どうでしょうか。
 ここでイエスさまは「思い煩うな」と私たちに語って下さいますが、今、ここに「思い煩うこと」の全くないという方はいらっしゃるでしょうか。
 多分、多分ですが、そういう方はいらっしゃらないのではないでしょうか。 逆に、もし、「私は全く思い煩うことは何もない」と言う方がいらっしゃったら、それはそれで、ちょっと怖い感じがするのですが、どうでしょうか。

 私は、人間という存在は、どうしようもなく、思い煩うことの多い生き物なんだなと、そんなことを思っています。
 これは、あくまでも我が身をふり返っての見解で、他の人も恐らくそうではないかとの想像の域を出ませんが、それは間違ってはいないように思うのですが、いかがでしょうか。

 私の場合、身近なことでは、ここでイエスさまが語っている、食べること、着ることから始まって、自分の生活の全般で日々思い煩っています。
 さらに健康のこと、老後をどうしようかとか、私の老後とはもう今のことですが、物忘れがひどくなり、体のあちこちも痛くなってきて、これからどうなるのかな、などなどといろいろと思い煩うのであります。
 また、日々接する人たちとの関係でもいろいろあって、それで思い煩ったり、もう考え出したら、切りがないほど、思い煩っているのです。
 言うなれば、朝起きてから、夜寝るまで、あれやこれやで「どうしよう」「どうしよう」「どうしよう」の連続で、結局、ほとんど何もできていないのが実情です。

 そればかりか、この情報化社会にあって、世界の悲惨な戦争とか政治的弾圧の実態や、地球温暖化による環境破壊、災害や飢饉、凶悪な犯罪で苦しむ人びとの姿が、ニュースとなって、リアルタイムで、自分の暮らしに入ってきます。
 これらの情報も、私たちの思い煩うことの一つとなるのです。
 また、何でもかんでもスマホ活用になって、全くスマホの分からない、そして使えない私はもう完全にお手上げ状態で、このような社会の急激な変化にも困っているのが、私の思い煩いの実情であります。
 最近も保険会社からクルマの保険の更新の情報がウェブになるとか言ってきて、そんなの全然分からなくて、これも「どうしよう」ということになっています。

 そんな私に対して、ここでイエスさまは、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」とおっしゃっいます。

 でも、そう言われても、私の現実は、そう簡単には、イエスさまの言うとおりには、いかないのであります。
 特に、私のような一人暮らしの高齢者は、日々、ホントに何を食べようか、何を飲もうか、そして、何を着ようか、思い煩いの連続であります。

 ちょっと余談で、脱線しますが、私は、2006年に妻が突然に事故で亡くなって、当時大学2年生だった娘と二人暮らしになったのですが、その内に娘に彼氏ができたので、私は家を二人に譲って、2010年から埼玉県坂戸市という田舎に引っ越して、それからずっと一人暮らしをしています。
 一人暮らしということは、ここにも一人暮らしの方はいらっしゃると思いますが、生活のすべてを自分で考えて、そのすべてを自分で行動しないと、何一つ動かないのです。
 小さなゴミ一つでも、自分で拾ってくずかごに入れないと、いつまでもずっとそこにあるのです。
 これは当たり前ですけど、それが現実です。

 私は、生活で感じたことを時々へたな詩にして、遊んでいるのですが、一人暮らしを始めて少し経って、こんな詩を作りました。

 題は、「おなかのすくはなし」です。
奥武蔵の山々が、きれいに見える坂戸市で
一人暮らしを始めて一年、今しみじみと感じることは
「生きることは食べること」、「生きることは食べること」
どういうわけか毎日3回、必ずお腹がすいてくる
朝昼晩とすいてくる
おなかがすけば我慢ができず、食事をしなけりゃなりません
食事をするということは、食事を作らにゃならぬのです
食事を作るということは、メニューを決めなきゃなりません。
メニューを決めた、その後は、食材買わなきゃなりません
食材買うということは、買い物に行くということです。
こうして準備し調理して、おいしい料理を味わって、
やっと食事が終わったら、食器を洗わにゃなりません
食器を洗ったそのあとは、ゴミを片付け、流しを磨き
洗った食器をキュコキュコ拭いて、戸棚に入れねばなりません
きれいに片したそのあとで、やっとひと息入れるとき、
そろそろおなかがすき始め、次の食事が攻めてくる
そんなこんなの自転車操業、日々の暮らしを思うとき、
同じ言葉がぐるぐるぐると、頭の中で回ってる
「生きることは食べること」、「生きることは食べること」
そんな私の耳元で、誰かがそっとささやいた

「人の生くるは、パンのみにるにあらず、
 神の口より出づる凡ての言に由る」と 

 こんなバカげた詩ですが、最後にちょっと聖書の言葉を添えています。
 詩とは言えない言葉の羅列ですが、でも、これが私の一人暮らしの基本であって、何を差し置いても食事をしなければならない状況を書いてみたかったのです。

 いずれにしても、私としては、このように毎日が、どうしようもなく、何を食べようか、何を飲もうか、そして、春夏秋冬、季節毎に、何を着ようかと、思い煩いの連続であります。
 更には、先ほども言いましたが、年を取ってきて体も頭も気力も弱るし、視力もちょっと狂ってきて、クルマの運転はいつまでできるのか、クルマがなくては生きていけないなとか、教会の牧師は、いつまでちゃんとできるのだろうかとか、そんな無数の思い煩いで、右往左往する毎日なのであります。

 それでも、ここで主イエスは、私に「思い煩うな」と言われるのです。
 私は「そんなこと言われても、イエスさま、それは無理です」と言いたくなります。
 それでも、イエスさまは「思い煩うな」とはっきり言われるのです。
 私たちにそんなことができるのでしょうか。
 きっと、できるから、主イエスはそう言われるのでしょう。
 では、主イエスがそう言われる根拠とは何なのでしょうか。
 それを、考えていて、フッと一つの答えが示されました。
 その示された根拠とは、「思い煩うな」と私たちに語ってくださる方が、ほかの誰でもない、私たちを造られた神さまの御子、主イエスだからなのだということです。
 つまり、語られる方ご自身が、そう語ることのできる根拠だったのです。

 イエスさま以外に私たちにそんなことを言える存在はありません。
 どんな親しい人でも、自分が思い煩っているときに、「思い煩うな」などと言われたら、カチンときてしまいます。
 主イエスだから、こう言えるのです。
 イエスさまだからこそ、こう言ってくださるのです。

 そう考えると、更にここで一つのことに気づかされました。
 それは、この「思い煩うな」という主イエスの言葉には、ひと言抜けているのだなということです。
 聖書の言葉がひと言抜けているなどということを、勝手に気がついてはいけないのかもしれませんが、気がついたのです。
 その抜けているひと言とは、「一人で」という言葉です。
 主イエスがおっしゃる「思い悩むな」には自動的に「一人で」がつくのです。
 イエスさまがおっしゃるからこそ、この言葉には「一人で」が補われることが前提となるのです。
 つまり、主イエスは私たちに「一人で思い煩うな」とおっしゃっているのです。
 何故なら、私たち、主イエスの福音を信じる者は、いつも復活の主イエスと共に生きているという恵みの中にあるからです。
 私たちは様々な思い煩いを抱えて生きていますが、その思い煩いはいつも主イエスが共にいて、そのすべてをまるごと知ってくださっているのです。

同じマタイによる福音書 11章28~30節で主イエスは私たちにこう語って下さいます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 主イエスのおっしゃる「思い煩うな」は、この主イエスの言葉とセットになっているのです。
 私たちが思い煩うとき、それは主イエスがもっとも私たちのそばにいるときなのです。

 それが、私たちの信仰なのです。
 そして、それが信仰をもって生きる私たちの特権なのだと思います。

 私たちは生きていく上で、思い煩いは尽きません。
 「思い煩うな」と言われても無理なのです。
 何故でしょうか。
 それは、私たちが、私たちを造られた神さまから離反してしまっているからです。
 それを聖書では「罪」と言います。
 そして、それが聖書が教える人間の姿です。

 人は、神さまから「食べてはダメですよ」と言われていた、エデンの園の中央にある「智恵の木の実」を食べてしまったのです。 
 それで、私たちはもう鳥や花とは違う存在なってしまったのです。
 こうして、神さまから離れてしまった私たちは、鳥や花にはもう戻れないのです。
 この聖書が伝える私たちの「罪」と私たちの「思い煩い」は、表裏一体で、つながっているのです。
 自分の小さな智恵で生きることになってしまった私たちだからこそ、思い煩いも尽きないのです。
 人は自分の知恵だけでは、平和に平穏に生きてはいけないのです。
 そこに私たちの思い煩いが生じてくるのです。

 主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのように育つのか、 注意して見なさい」とおっしゃいます。
 それは、「鳥のように生きなさい、花のように生きなさい」ということではないのです。
 そうではなくて、鳥と神さまの関係をみなさい、花と神さまの関係を見なさい、ということなのです。
 あなたたちは、神さまのみもとに住んでいたいた時は、鳥のようであり、野の花のようであったのですよ、というのです。
 でも、私たちは、もう鳥にも花にも戻れないのです。

 しかし、そう、しかし、なのです。
 しかし、そこに良きおとずれ、主イエスの福音がもたらされたのです。
 鳥にも花にも戻れない私たちのただ中に、主イエスは来てくださったのです。
 神さまは、私たちのただ中に御子イエスをお送り下さり、もう一度神さまとの関係を取り戻せる道を作ってくださったのです。
 御子イエスは私たちのただ中で人として生き、人とは本来こうあるべきという生き方を示してくださり、それゆえに、最期は十字架にかかり、私たちの罪をご自分の身に負って下さったのです。
 そして、主は、墓の中から復活して、今、私たちと共にいてくださいます。
 この、主イエスの福音を信じる私たちは、いつも復活の主イエスが共にいて、私たちの思い煩いも共に負ってくださるのです。
 それこそが私たちの信仰の大きな恵みなのです。
 私たちの思い煩いは尽きませんが、その私たちと共に、主イエスがいてくださる。
 私たちは、決して一人ではないのです。
 いつも主イエスと共に歩んでいるのです。
 だから、主は「一人で思い煩うな」とおっしゃるのです。
 主と共に、さまざまな思い煩いを抱えながら生きる私たちは、その「思い煩い」も一緒に主の救いの中に入れられているのです。
 それが、復活の主と共に生きるということです。
 そのことこそが、主がおっしゃる「思い煩うな」の真の意味、つまりは「一人で思い煩うな」との言葉なのだと、私は受け取るのであります。
 そして、それが、今日のお話の題の「思い煩うな、と言われても」の答えなのです。

 その信仰の恵みと喜びを歌った、私の愛唱する詩があります。
 最後に、二人の方の詩を紹介して拙い話を閉じたいと思います。
 お二人ともみなさんよくご存じの詩人です。

 一人目は、星野富弘さんの詩2編です。

 「木にある時は枝にゆだね、
  枝を離れれば風にまかせ、
  地に落ちれば土と眠る、
  神さまに委ねた人生なら、
  木の葉のように、
  一番美しくなって散れるだろう」

 「どんな時も神さまに愛されている。
  そう思っている。
  手を伸ばせば届くところ、
  呼べば聞こえるところ、
  眠れない夜は枕の中に、あなたがいる。」

 星野富弘さんは、みなさんよくご存じと思いまが、群馬大学教育学部保険体育科を卒業して中学校の教師になってすぐの1970年6月に体操のクラブ活動の指導中に墜落事故で頭部から転落、頸髄を損傷して、首から下、手足の自由を全く失った方です。
 そんな絶望の底から、キリストへの信仰に導かれ、筆を口にくわえて絵と詩を書くようになった方です。
 私は星野さんと同年代で、自伝を読んで、いろいろ共感できることが多くて、星野さんの詩画集はほとんど手に入れて、読んで味わっていましたが、一昨年4月28日に、星野さんは主のみもとに召されていきました。
 私はとても残念で、改めて星野さんの詩画集を読んでみました。
 星野さんの人生の悩みは、私の「思い煩い」などとは、桁違いに深刻なものだったと思いますが、それを主が包み込み、主が共に担ってくださり、彼はこのようなすてきな詩を作って私たちを励ましてくれているのです。
 短いので、もう一度読みます。

 「木にある時は枝にゆだね、
  枝を離れれば風にまかせ、
  地に落ちれば土と眠る、
  神さまに委ねた人生なら、
  木の葉のように、
  一番美しくなって散れるだろう」

 「どんな時も神さまに愛されている。
  そう思っている。
  手を伸ばせば届くところ、
  呼べば聞こえるところ、
  眠れない夜は枕の中に、あなたがいる。」

 そして、もう一人が水野源三さんです。
水野源三さんもみなさんよくご存じと思いますが、9歳の時赤痢に罹りその高熱によって脳性麻痺を起こし、やがて目と耳の機能以外のすべてを失いました。
 体を動かすことも、話すことも、書くこともできなくなった源三さんとなんとかコミュニケーションをとろうとお母さんが、五十音順を指で指し示したところ、源三さんは目の動きで、それに応えたのでした。
 このコミュニケーションの手段で、源三さんは主イエスへの信仰に導かれ、更に、主イエスへの信仰をうたった沢山の詩を作って、「瞬きの詩人」と呼ばれるようになったのです。
 このように、「思い煩い」などと一言で言えない、私たちの想像もつかない境遇の源三さんの作った「境遇」という詩があります。

  「境遇」
自分の境遇を
見つめて嘆き悲しむ者よ
どんな境遇にある心にも
救いと命を与えたもう
恵みふかき主を仰げよ

自分の境遇を
見つめて死のみを願う者よ
どんな境遇にある心にも
希望と力与えたもう
恵み深き主を仰げよ

自分の境遇を
見つめて世間を恨む者よ
どんな境遇にある心にも
愛と喜びを与えたもう
恵み深き主を仰げよ

 まさにこの源三さんとか、富弘さんの詩こそが、主イエスがおっしゃる「一人で思い煩うな」、「一人で思い煩わなくていいんだよ、私が共にいるんだよ」ということを信じる信仰がうたわれていて、それが私たちを励ましてくれるのです。
 日本にこのお二人がいらっしゃったということは、日本のキリスト教界にかけがえのない贈り物なのです
 主イエスと共に歩むということは、私たちが思い煩いを抱えたままで、まるごと主の救いの中に入れられている、ということです。
 そして、この主と共に歩むということは、私たちが生きている今も、そして、この地上の命を終わった後も、続いていくのであります。
 それこそが私たちに約束された永遠の命なのであります。
 星野富弘さん、水野源三さん、このお二人の詩は、そのことを詠って、私たちを導き、励ましてくださっているのであります。

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